2015年2月7日 星期六

芮恩施(Paul Samuel Reinsch ) Intellectual and Political Currents in the Far East / Chinese Ideals of Peace / 片上 伸 かたがみ のぶる講"北歐文學的原理"


1911.10.16 胡適讀Paul Samuel Reinsch新著作:(1911). Intellectual and Political Currents in the Far East.
之作者對中國過去20年學術思想變遷大勢,了如指掌。....中於人名年月稍有訛誤,為糾正之,作書寄之著者。

 1922.9.17  胡適訪芮恩施。他重申2年前的約定寫 Chinese Ideals of Peace 
胡適認為,兩千美金足夠 ,日記上有各章章名 ,第776頁。
 可惜芮恩施隔年早逝。


芮恩施(Paul Samuel Reinsch,1869年6月10日-1923年1月26日),美國律師,政治學者,外交官,當時美國遠東事務權威,1913年-1919年出任美國駐華公使。
1898年至1913年任威斯康星大學政 治學教授。1913年11月-1919年9月出任美國駐華公使。1915年贊同袁世凱稱帝。1917年推動中國対德絕交和宣戰,提高中國的國際地位。 1919年5月巴黎和會傷害中國利益,芮恩施認為美國政府背信棄義,憤而辭職。1919年9月離任的時候向徐世昌總統邀請梅蘭芳赴美演出京劇。1920年 回美國,在華盛頓創辦律師事務所,主要為中國政府提供法律諮詢。1922年7月應中國政府邀請來華到北京訪問,諮詢金融系統問題,期間感染急性肺炎,於 1923年1月26日病逝於上海。
著有 《平民政治的基本原理》《遠東的知識和政治潮流》《公共國際聯盟》等政治學和法學著作,和回憶錄《一個美國外交官使華記》。

參考文獻

Paul Samuel Reinsch (June 10, 1869–January 26, 1923), was an American political scientist anddiplomat.[1]

Career overview[edit]

He was born in Milwaukee, Wisconsin of German-American parents. Reinsch graduated at theUniversity of Wisconsin–Madison in 1892, attended the school of law at the same institution and after graduating in 1894, was admitted to the bar and practiced law at Milwaukee for some time.
He returned to the University of Wisconsin–Madison for additional schooling in 1895. He was also employed there as an assistant professor of political science. In 1913 he became the United States Minister to China, a position he held until 1919.[2] Before and after that date he served as delegate to various international conferences.[3]

Publications[edit]

  • (1899). The Common Law in the Early American Colonies.
  • (1900). World Politics at the End of the Nineteenth Century.
  • (1902). Colonial Government.
  • (1905). Colonial Administration.
  • (1907). American Legislatures and Legislative Methods.
  • (1909). Readings on American Federal Government.
  • (1909). Civil Government.
  • (1911). Readings on American State Government.
  • (1911). Intellectual and Political Currents in the Far East.
  • (1911). Public International Unions.
  • (1922). An American Diplomat in China.

Selected articles[edit]

  • "A Parliament for China," The Atlantic, December 1, 1909.
He was a contributor to the New International Encyclopedia.

Notes[edit]

  1. Jump up^ http://politicalgraveyard.com/bio/reily-remsen.html
  2. Jump up^ Pugach, Noel (1969). "Making the Open Door Work: Paul S. Reinsch in China, 1913-1919," Pacific Historical Review, Vol. 38, No. 2, pp. 157-175.
  3. Jump up^ Pugach, Noel (1979). Paul S. Reinsch, Open Door Diplomat in Action. Millwood, N.Y.: KTO Press.

External links[edit]

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1922.9.20 胡適代主席啟明翻譯 片上伸講"北歐文學的原理"。
他用易卜生代表北歐托爾斯泰代表俄國  指出他們都趨向  極端絕對的理想 不喜調和為北歐文學的特色 胡適說"此意亦有理".



留俄
片上 伸(かたがみ のぶる、1884年2月20日 - 1928年3月5日)は、日本の文芸評論家ロシア文学者である。初期は天弦の号で執筆活動をしていたので、片上天絃片上天弦)の名でも知られる。
愛媛県今治市波止浜出身。一族は裕福な庄屋だが、伸の父・良(つかさ)は月番所詰めの役人[1]。幼いころから神童と呼ばれ、新聞・雑誌の投稿欄の懸賞金を学資に当てていたという。松山中学校を卒業後、学資の不安から在学期間の長い帝大を諦め、1900年東京専門学校予科に入学する。在学中は英文学を学んだが、当時の自然主義文学の勃興期に際して自然主義文学に傾倒し、卒業後は『早稲田文学』の記者を経て、早稲田大学の教授になり、英文学、ロシア文学を講義しながら、雑誌『早稲田文学』に自然主義を擁護する評論を多く発表した。


1915年に早稲田の留学生として文学研究とロシア文学科準備のためにロシアに留学し、その途中で1917年ロシア革命に遭遇、そのころから、社会の改革と文学との役割について考えるようになり、1918年の帰国後からはプロレタリア文学の初期の評論に転換していった。その際、天弦の号から、片上伸の名前で評論を発表するようになった。
1920年、片上を主任教授に早稲田大学にロシア文学科ができる(のちに学部長になる)。それまで英文テキストに頼っていた日本のロシア文学研究は、これを機に本格化する。背が高く、眉目秀麗、いつも身ぎれいで役者のような外見の良さも手伝って、人気の若手評論家としても活躍した。

ただし、人格面ではいろいろとあったようで、生徒には大変恐れられていた[2]。1920年代に早稲田に学んだ井伏鱒二尾崎一雄たちの回想の中では、主人公たちの夢を邪魔するような存在として描かれていることが多い。特に井伏は1921年、片上のセクハラ行為によって大学中退を余儀なくされる被害に遭った。井伏は短編小説『喪章のついてゐる心懐』で片上との思い出に触れたほか、回想録『鶏肋集』で片上と推測される人物を挙げ、「体質的に非常に気の毒な人」と評している。

1924年坪内逍遥は自らの日記に、片上と学生との同性愛騒ぎが起こり、大学から退職勧告を受けて辞職し、再びロシアへ留学した[3]という一連の経過を記している。片上には妻子がおり、学内の派閥争いも絡んでいると見る向きもある。ロシアから帰国後、1928年脳溢血で死去。享年45。

東京帝国大学哲学科の学生で批評家でもあった竹内仁(たけのうちまさし)は、片上の14歳違いの弟。竹内姓は養子先のもの。1922年に小石川の婚約者の家でその両親を殺したあと、自殺(享年24)。1980年に、批評をまとめた『竹内仁遺稿』(湖北社)が出版されている。

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